作品を通じて対話をしたい人がいる

よく人に「なぜ、創作をしているのですか?」と尋ねると、返答は沈黙になることが多い。そのあと、いくつかの質問を投げかけると、答えに困りはじめ、結果、詰めているような雰囲気になり、僕は質問を止める。よく、こうなる。

その人を責めているわけではない。
単純に、その人が抱える「創作の根源」を聞いてみたいだけだ。

回答はそんなに難しいだろうか。
逆に自分に問いを向けてみれば、沈黙してしまう理由は少し理解できる。

個々の作品には意図はあれど、自分の根源は何なのだ?と問われると、それなりにプライベートな話に足を踏み入れてしまう。
場合によってはコンプレックスや自分の性格の欠点が、主題になってくる。それは答えにくいだろう。

本当に何も考えていないという可能性もあるが、そんな理由もあって答えに窮してしまったのかもしれない。
では僕はどうなのか。
何故、作るのですか?と自分に問いてみる。

「そうやって生きてきたから」
現実として、このような回答になる。
別にカッコつけようとして言っているわけではない。
本当にそうなのだ。

一番古い記憶で、5歳の時、車の絵を描いて保育園で友達と笑い合っていた。立体を描くのが得意だったので、車を立体的に描いて友達を喜ばせていたし。

レゴブロック、ダイヤブロックなどの、パーツを組み合わせて遊ぶ玩具が大好きで、毎日新しい乗り物を作っていた。ちなみに、どんな乗り物でも空を飛ぶ機能をつけていたよ。

小学校、中学校と進んでも、漫画、小説と何かしら手を動かしていた。紙のノート、ワープロを使ってひたすら物語のプロットや設定を書き上げていた。一部は黒歴史という恥ずかしい物もあるけど、今の展示や作品名は、その時に考えたものもある。

時間が経ち、創作につかうツールも進化する。
任天堂のスーパーファミコンには、創作をするソフトも沢山あった。
音楽を作るシーケンサなんかも、その時代に初めて触れたのだと思う。その頃も、何かを作る→友達と共有する、とうのが僕にとっての生活の根幹だったし、それが遊びだった。

今はその創作ツールはパソコンになっている。
これがあると何でも作る事ができる。
幸せである。
とは言ってみたものの「そうやって生きてきたから」という理由は、根源とするには抽象的すぎる。
「暮らし」や「ひかり」をコンセプトに掲げるくらい酷い回答だろう。それば、絵の展示で「私」、料理のイベントで「四季」と付けるぐらい「それ言ったら全部そう」みたいに頭の悪い回答だと思えなくもない。

ここはもう一歩踏み込もう。

改めて、僕が創作をする理由は何か?と聞かれたら、これが答えになる。

「作品を通じて対話をしたい人がいる」

これに尽きる。
対話の主となる言葉では複数の概念を同時に伝えられないし、受け取り側にも同等の知性が必要になってしまうが、創作物を通じて総意を伝えるなら、いくばかはボーダレスになる。
僕はそう思うし、ずっとそうやって生きている。